067265 ランダム
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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

Stand By Me 4

 食卓では、誰も口をきかなかった。あや女は無心にカレーを食べ、里見はがつがつとカレーを食べ、桜子はスプーンを弄んでいる。
 やがて、沈黙に耐えられなくなった里見が口を開いた。
「ちゃっちゃと食えよ。送ってっちゃるから」
「あたし、帰らないもん。ここに泊まる」
 桜子の言葉を聞いて、あや女はカレーを吹き出しそうになった。
 何年前のことだかも忘れたけれど、最後に桜子と会った日、桜子はあや女を憎んでいた。
 あや女には生まれたときから両親がそろっていたけれど、桜子にはずっと父が欠けていたから。そして、それはあや女のせいだったから。
 あや女は、桜子の母や、自分の母の恋人には何の感情もなかった。彼女たちは「大人」だから。不倫もシングルマザーも、自分で選択したのに違いないから。
 でも、桜子は――桜子は、望んで父親のいない家庭に生まれてきたのではなかった。
 だからあや女は、桜子には憎まれても仕方ないと思っていた。
 その桜子が、あや女の家に泊まりたいと言っている。
「お父さんにはなんて言ってきたの?」
「あんたに関係ない」
「ここはあたしの家!」
 桜子は、あや女を無視して里見を責めた。
「どうして里見があや女の家なんかにいるのよ! あたしじゃだめだって言ったのに、あや女ならいいの?」
 ……呼び捨てだし。あや女は、がっかりする。
「おまえは未成年だろうが」
「年なんて関係ない」
「俺とあや女も、なんも関係ないんだよ」
「嘘。なんでもなくて、あや女が部屋に男泊めるわけないもん」
「なんで、桜子がそんなこと断言できるのよ」
 あや女が驚いて口を挟むと、桜子は少し赤くなって悔しそうに言った。
「パパがいっつも言ってるもん。あや女は真面目で、しっかりした娘だって」
 桜子は、急に矛先を変えた。
「だいたい、あや女はずるいのよ。いっつもあたしの欲しいもの、先に手に入れてさ」
「俺はもの?」
 里見の呟きは、二人の耳に入らなかった。
「親父のことは仕方ないにしても、先生のことは誤解だって。本当になにもないんだから」
「いい年した男と女が、一つ屋根の下でなにもないわけないじゃん!」
(俊成にも同じことを言われた……。なにもないのは、あたしに魅力がないってこと?)
 あや女の、女としてのプライドはボロボロだった。
「変なふうに勘ぐるなよ。俺は、そんな野獣じゃねえよ。本当になんもないんだ」
 里見が諭すように口を出したが、桜子は聞く耳を持たなかった。
「そうやって、あや女のことを庇うの」
「いや、そうじゃなくて……」
「じゃあ、まだ好きなのね。幸ちゃんのこと」
 里見の顔が、蒼白になった。その表情を見ると、桜子は小気味よさそうに笑い出した。
「なあんだ。やっぱりそうなんだ。残念だったわね、あや女。里見はあんたのものにはならないわよ。里見はゲイなんだもん」
 桜子は、そのまま苦しそうに笑い続けた。里見は、桜子の頬を平手で打った。笑いの止まった桜子の瞳から、涙が一筋流れている。
「帰ろう。送るから」
 そう言うと、里見は立ち上がった。桜子も、素直に里見に従った。
 二人はなにも言わず、あや女もなにも言わず、やがて彼らの姿がドアの向こうに消えた。

 里見が戻ってきた時、テーブルの上は既に片付いていた。
 あや女は居間で、ワイルド・ターキーをロックで飲んでいる。
「せめて水割りにしとけや。明日も仕事だろ」
 里見が疲れたように言った。さっき出て行ったときから、まだ二時間も経っていなかった。
「帰ってこないかと思ってた」
「それで寂しくて、やけ酒飲んでたとか」
 里見は笑いながら言うが、あや女は冗談にのれる気分じゃなかった。無言で琥珀色の液体を口に含み、飲み下した。
「しっかし、おまえらが姉妹だったとはな」
 里見は冷蔵庫からビールを取り出し、あや女の横に座った。
「半分だけね。親父が愛人に生ませた子さね。――今は正妻だけど」
「それでか」
 里見はプルトップを引き上げ、一口飲んだ。
「入学した頃から、なんだか荒れててね。いろいろ話とか聞いてやってるうちに、その、な……」
「ありがちなパターンだな」
「でも、手は出してないからね。おねーさん」
 ゲイだからね、と言いたいのをあや女はこらえた。グラスに氷を足しながら、何気ないふうに言う。
「どうして最初から、幸ちゃんのところへ転がり込まなかったのよ」
 里見は、テレビを眺めながらビールを飲んでいた。画面では、素人が旅をしながら恋もするとかいう番組をやっている。
「幸弘は、俺の一番大切な人間だった」
 想いが届かず悩んでいる男の表情を見ながら、里見は過去形で話し始めた。
「大学の同級生で。――俺らビンボーだったから、二人でお水のバイトやったり、酔っ払ったまま海まで車走らせたり。バカなことばっかりやってたけど、いい奴だった。あや女も会ってたら、きっと惚れたぞ」
 あや女はなにも言わず、肩をすくめた。里見は少し笑って、また話し続けた。
「頭はいいし、顔もいい。友達も大事にするし。みんな、あいつのことを完璧だと思っていた。たった一つの欠点は、長生きしなかったってことだな」
 言葉を切って、里見はまたビールを飲んだ。
 あや女は、なにも言えなかった。なにを言ったらいいかわからない。強いアルコールも、今は口を滑らかにしてくれない。テレビの笑い声だけが、虚しく部屋に響く。
「桜子に初めて会ったのは、幸弘の葬式の時。あいつが中学に上がったばかりの頃で、俺はそんなガキ、覚えてもいなかった。でも、あいつは泣いてた俺を覚えていたんだな」
「泣いたの?」
「ああ。鼻水たらしてビービー泣いたよ。泣くしかできなかった」
 里見は、少し自嘲的に笑った。
「俺の勤めてる高校にあいつが入学してきた時、びっくりしたよ。面差しが幸弘とそっくりなんだ。無理ねえよな。従兄妹だっていうんだから」
 そこまで言ったとき、里見はふと気づいたように、あや女を見た。
「もしかして、あや女も? 幸弘と雰囲気は似てるけど」
 あや女は首を振った。
「違う。たぶん、桜子の母方の親戚よ」
「そっか。気のせいか」
 里見は立ち上がり、冷蔵庫から二本目のビールを取り出した。飲んでいる横顔が寂しそうなので、あや女はからかうこともできなかった。
 だが、里見はすぐにしんみりした雰囲気を破るように明るい声で言った。
「でも誤解するなよ。俺と幸弘は、体の関係はないからな」
「わざわざ言うの、なんか言い訳がましい」
「ちゃんと言っておかないと、女って際限なく妄想ふくらませるだろ。桜子も、なんか勘違いしてるんだよな。そっち系のマンガとか小説の読みすぎなんじゃねえの」
 里見の言葉のバカにするような響きに、あや女はカチンときてしまった。間の悪いことに、今頃強いアルコールが効きはじめている。
「じゃあ、幸弘とはしてなくても、基本的に男が好きなのね」
 だからあたしには手を出さなかったのね、という言葉はかろうじて引っ込めた。
「俺は幸弘が好きだっただけだ。男も女も関係ねんだよ。好きだから、そばにいたいと思っただけ」
「シンプルね」
「単純ってこと?」
「そうかも」
 確かに、好きだからそばにいたいと思うのは単純だ。だけど、単純だからといって、その想いを笑うことはできない。その想いは、あや女にも経験があるから。
 あや女は首を振り、突き放すように言った。
「ま、男だろうと女だろうと構わないけどさ、生徒に手を出して首にならないようにね」
「桜子には手を出さないって」
「桜子のこと好きなら、あたしは別に構わないけど」
「俺は、生徒は恋愛対象にしてないの」
「あ、そ」
 別に、里見が誰を恋愛対象にしていようと関係なかった。
 あや女は立ち上がり、キッチンに行ってグラスを洗い始めた。その後姿に、里見が声をかける。
「あや女はー、さっさと男作れ。いつまでも先輩に惚れてないで」
 泡だらけの手から、グラスが滑り落ちた。幸いにも割れていない。
「なんのことよ」
「一目瞭然だっつーの。ちょっと注意して見てりゃな」
「ヘンな言いがかりつけないでよ! あたし、俊成のことなんてなんとも思ってないんだから」
 言いながら顔が赤くなってしまうことが、とても悔しかった。もっと冷静に、もっとクールに言い返したいのに。
「意地張ったって、なんもいいことねえんだよ。先輩だって、本当はあや女に惚れてたんだから。それを、キューピットだなんて余計なこと……」
 少しの間忘れていられた、あの昼の食堂での会話が思い出される。
「先生には関係ない」
 やっと、あや女は低い声で言った。
「……それもそうだよな。悪かったな」
 おやすみ、と言って里見は居間から出ていった。



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